生き方道標・或る一つの【要約決定版】
生きにくい世の中をどう生きるか?処世訓の最高傑作「菜根譚」
「菜根譚」
洪 自誠(著)
明の時代に著された古典
・このストレスだらけの生きにくい世の中を
どうすれば前向きに幸せに生きていけるのかを
教えてくれる人生の指南書であり人生の処世訓。
経営の神様 松下幸之助、元首相 田中角栄、
元巨人軍監督 川上哲治、などのレジェンド達の、
座右の書としても有名である処世訓の”最高傑作”
日本においては、古く江戸時代から現在に至るまで
永く人生の指南書として親しまれている究極の一冊。
著者の洪 自誠については、詳しい略歴の不明な
謎の多い人物であるが、若い時に超難関試験を突破し、
一時期官僚となるも、中途で引退をし、残りの人生を、
仏教あるいは道教といった思想研究に没頭して
過ごした人物ではないかと一部で言われています。
「菜根譚」というタイトルの由来は、
宋の時代に活躍した儒学者 王 臣民の言葉、
”人よく菜根を咬み得ば 即ち百事なすべし。”
(固い野菜の根を噛みしめるように、
困難に耐え抜くことができれば、
多くの事を成し遂げられる。)と言うことと、
いま一つ、「菜根」と言う言葉には、
粗末な食事という意味も含まれていて、
経済的に恵まれていなくとも、誰しも、
心豊かに幸せに生きることが出来るんだという
大切なメッセージが込められています。
(儒教、仏教、道教の三教の優れた部分を融合し、
人としての生きる道を説いた、他に類をみない
処世訓の”最高傑作”)と言われています。
「儒教というのは、思想家孔子の、
”学問を修め身を立てて、国を治める事を説いた
いわゆるエリートの教えであり、
他方 道教というのは、自らの人生を自然のまま、
のんびり満足を得ながら緩く過ごしましょうという
いわゆる民衆の教えであり、その原型は”老荘思想”
にあります。その二つの教えでは救いきれない部分を、
仏教(禅宗)禅の心が、現実世界を生きる人の心を癒し、
支えとなったのです。」
① 幸不幸を分けるもの。
②本当の幸せとは何か?
③人間関係の三原則。
① 幸不幸を分けるもの
幸せな人、不幸せな人、この両者をを分けるものとは何か?
それは心である。心の持ち方一つで、
その人が幸せか幸せでないかが決まるのだ。
心が動揺していると、我々人間は、物事を、
ありのままに捉えることが出来なくなるのだ。
例えば、酒の入った杯に弓が映れば、
それを蛇だと勘違いをし、
草むらに横たわる大きな岩を見れば、
それをしゃがみ込んでいる虎だと見間違う。
心が乱れた状態で生きていると、
自分の目の前に映るすべての物や人が、
まるで自分を傷つけ、攻撃してくる対象であると
錯覚してしまう。
また心が動揺し、雑念に支配されてしまうと、
自分の事もよくわからなくなる。
本来自分はどういう人間なんだろう、
本当は何が好きで、何が嫌いで、
どんな生き方をしたいんだろう。
そうやって一生懸命自分の心の中を覗き込んで、
本当の自分を探しても、
心が雑念で曇っていては、何も見つかりはしない。
それはまるで水面に映り込んだ月を、
一生懸命手ですくい取ろうとしているようなものなのだ。
※この世の全ては、自分自身の心の動きによって作り出されている。
※心の鏡を、雑念で曇らせないようにしておきましょう。
そうしておかないと、幸せを感じ取ることは出来ません。
(その為にはどうすれば良いか?)
「菜根譚」では、自分の暮らしの中にゆとりを持って、
自分と向き合う時間を大切にすることを勧めています。
静まりかえった夜、ひとり座って、
じっくり自分を鑑賞する。
そうすることによって、
少しずつ煩悩が消え去って心の曇りが無くなる。
と説いています。
そうは言っても、そんな時間は無いよと
思われる方もいるかも知れません。
その時間についても、こう説かれています。
※時間についても、人間の心次第である。
その時間を過ごす人間の気持ちの持ち方
捉え方一つで、長くもなり短くもなる。
これは場所についても同じである。
心の持ち方一つで、
広くもなるし狭くもなる。
ゆったりとした気持ちを持った人間には、
一日がまるで千年の長さに感じられる事もあるし、
狭苦しい部屋も天地の広さに感じられる事もある。
結局は、心次第なのである。
天地は永遠であるのに対し、人生の時間だけは、
どうあっても巻き戻すことは出来ない。
人の寿命など、せいぜい100年だろう、
あっという間である。
この世に生まれた以上、
楽しく生きたいという願望、
そして時間を無駄にすることへの恐れ、
この二つの感情を同時に持っておきたいものだ。
※ゆとりは大事であるが、浪費はダメである。
②本当の幸せとは何か?
世の多くの人は、
財産や地位や名誉がある人こそが、
最も幸せな人間であると思っているようだが、
そうとは限らない。
実は名前も知られていない、地位も無い、
ごくごく普通の人の生活の中にこそ、
最高の幸せがあるのだ。
例えば住む家もなく、毎日の食べ物が無い人がいれば、
あ〜なんて気の毒なんだと誰もが思うだろう。
だが、財産も地位も名誉も手にした人間というのは、
それ相応の深刻な悩み不安葛藤を抱えているものだ。
しかし多くの人は、そういった事実について
不思議と目を向けない。
これ以上ない満ち足りた境遇というのは、
例えるならば、
器に注がれた今にも溢れそうな水のようなものだ。
この上に一滴たりとも加えることを許されていないのである。
では、人間にとって、本当の幸せとは何だろうか?
それは、何事もなく、平穏無事に
過ごせることにほかならない。
それこそが何よりの成功であり、幸せな事なのだ、
逆に、とめどなく溢れる欲求に囚われ、
何をしても満足出来ない人生ほど、
不幸なものはないだろう。
釈迦がかつて言ったように、
欲望が燃え盛ればこの世は灼熱地獄となるのだ。
自分の精神が充実していれば、
粗末な布団にくるまっていようが、
質素な食事を摂ろうが、
人生は十分に楽しむことが出来る
確かに、幸福というものは、
手に入れようと思っても、
そう簡単に手に入るものではない。
だが、常に喜びの気持ちを持って暮らすことで、
幸福を呼び込む道を作ることは出来る。
また不幸も同じく、避けようと思っても、
なかなか避けられるものではない。
だが、常日頃から、人を傷つけないよう心がける事で、
不幸が入り込んでくる道を狭めることが出来る。
ただ、こういった幸せや不幸といった心の感覚は、
本質的に表裏一体の関係になっていることに、
気付かねばならない。
例えば、子供が生まれる時、母の体は、危険に晒される。
金持ちになればその財産や命を狙われる。
要するに悲しみだけが不幸を呼ぶのではなく、
喜びもまた、不幸を呼び込む種になるのである。
それゆえ、人生の達人と呼ばれる人間というのは、
幸せも不幸も同じと考え、
己が感じとった喜びや悲しみといった感情を、
忘れ去りながら生きているのだ。
③ 人間関係の三原則
一、 相手の小さな失敗や過ちを一々咎めない事。
二、 相手の隠しておきたい事を、わざわざ暴かない事
三、 相手の過去の過ちをいつまでも覚えておかない事。
そうする事で、己の人格も高まるし、何より人から、
余計なことで、恨まれることもないだろう。
また、仕事などで困っている相手のために、
あなたが手を貸してあげたとしよう、
この時注意しなければならないことは、
自分が与えた恩恵については、一切の、
見返りを期待しないことだ。
繰り返しになるが、相手から
恨みを買わないこと、
それこそが何よりの見返りなのだと
心に留めておくと良い。
この世界には、いろんな人間がいる、
誰に対しても細やかな配慮があり、
何事も行き届いている者もいれば、
その一方で、誰に対しても全く配慮も無く、
人に興味を示さない者など、実に様々だ。
ただ、人と関わりながら生きている以上、
配慮が有り過ぎるのも、無さ過ぎるのも問題だろう。
裙子たるものは、そういった偏りの無い態度を
心掛けたいものである。
何事も程々が良いのだ。
花を見るなら、5分咲き、
酒を飲むなら、ほろ酔い程度、
このあたりにこそ、最高の趣きがある。
満開の花を見たり、
酔い潰れるまで飲んだりしては興醒めだ。
※孔子が最高の概念としていたものに、
中庸というものがあります。
意味としては、偏ることなく、
常に変わらないというものになります。
この中庸の精神、バランス感覚こそが、
大事なのだと言うわけです。
ですから、真面目すぎたり、
拘りすぎたり、神経を使い過ぎたりするのも
中庸ではないと言うことになります。
万人から好かれようと神経をすり減らしたり、
つまらない人間の為に、ただヘコヘコ
調子を合わせたり、部下から嫌われないように、
ただ、喜ぶことしかやらなかったりするのは、
あまり宜しい態度では無いと、
はっきりと「菜根譚」には書かれています。
一度きりの人生を豊かに彩る、
人生の指南書「菜根譚」。