トラック⑨⑩天風曰く
昔から、この雑念妄念を
取り除くために、
難行苦行をしたり、あるいは、
時間を掛けて座禅をするのも、
目的はここにある。
昔の人間はそうしなきゃ
雑念妄念が
取り除けなかったと思ったのも、
無理ありませんよ。
今でもそう思っている
愚かな人があるもの。
やっぱり頭の古いやつ、
易がどうだの、
方角がどうだのなんて、
古くさい頭を
もっているやつが
いるんですから、
雑念妄念を取るのに
難行苦行や、時間を掛けた
座禅でも組まなきゃ
できないように思っている
馬鹿があるんですよ。
生まれた時から人間の心に
くっついているものなら、
これは取りにくいでしょう。
けど人間の、
生まれた時というのは、
なんの色にも染まらず、
汚れもなかった純真な
ものだから、
生まれた時から今の、
いやらしい心を
もっていたんじゃ
ないんですよ。
さなぎだに、
マスコミの時代に
活きるってぇと、
自分でいくら断っても、
知らない間に、
それはもう雑念妄念が
しこたま心のなかに
燃え出すような心に
なっちゃったんです。
もう少し詳しく
このお話をしましょう。
人間の心はね、
その働きの上から、
哲学的に言うと、
二つの境涯があるんです。
一つを「実我鏡」と言い、
一つを「仮我鏡」と
言うんであります。
「実我鏡」というものは、
肉体の五感を超越して
働いている境涯が実我鏡。
仮我の境涯というのは、
肉体の五感とともに
働いている境涯を言う。
だから現在のあなた方は、
この仮我の境涯に
いるわけであります。
そして更に、
実我の境涯が二つに
分かれていて、
「無意実我」と「有意実我」
というふうに
分かれている。
仮我の境涯の方が、
「順動仮我」と「逆動仮我」
という二つに分かれる。
無意実我というのは、
よく寝ている時か、
気絶している時のような、
あるのは命だけ、
それが無意実我。
有意実我というのは、
一切の感覚を超越し、
感情、情念を滅断した
純真の心だけが肉体と精神とを
支配している状態。
これがやがてあなた方が
今すぐ入れます。この状態に。
入れてあげるから。
それから、
仮我の境涯の
順動鏡というのは、
明瞭な意識で
五感感覚を支配して、
名利名門はもちろん、
その他病が
生じようが生じまいが、
また死であれ生であれ、
まして怒ることや
悲しむことや
怖れるというようなことに
心が少しも感情的に
煩わされないで、
いかなる時にも悠々として、
常に泰然と心に波風立てないで、
「晴れてよし、曇りてよし、
富士の山」という状態に
なっている心。
つまり積極的と言うんで、
これが順動仮我。
逆動仮我というのは、
もう多く説明する
までもない。
あなた方のつい昨日までの
心持ちだ。
凡夫煩悩の人々の
心の状態で、
執着無解脱の状態を言う。
人生のできごとのすべてに
しょっちゅう心がとらわれて、
常に不平と不満で私欲と感情を
燃やして、
足ることを知らず、
足りて初めて幸福なんだから、
足ることを知らなきゃ
どんなに世界一の金持ちに
なったって不幸ですわね。
足ることを知るもの
幸福なり、というのが
あるでしょう。
そういうような
言葉を聞いても、
この逆動仮我の状態に
活きている人間は
「何を寝言言ってやがんだ」
ってなふうに聞いちまうんです。
寝言でないのを、寝言と聞いて、
明けても暮れても肉体本位で、
五感の虜となって、
神経過敏で消極的な、
少しものどかな安心の時を
感じない。
この状態が、
逆動仮我の鏡と、こういう。
大抵な人はこの逆動仮我で
毎日活きてます。そして、
格別それを悪いことと
思ってませんよ。
よく考えなさいよ。
神人冥合の人となるのには、
心身一如に
ならなきゃならないが、
その先決問題として、
心が積極的でないと
いけないと言ったが、
雑念妄念を
除き去らない
限りにおいては、
どんなことをしても不可能。
当然、ひとりでにスーッと、
水が高いところから
低いところに
流れ込むように、
逆動仮我の状態に
なっちまうんですよ。
特別な方法を行なわないと。
とにかく世の中が
そういう世の中だもの。
特別に心を処置しない限りは、
ともすれば心に雑念妄念という
垢汚れがすぐくっついて、
どんなに自分が順動仮我鏡に
活きようと思っても、
思っただけでものにならない。
ではどうすればいいか。
ここからが本筋です。
明日に続きます。
ではまた明日。
雑念妄念を取り除いて神人冥合の人となる。