夏が過ぎ、秋も過ぎ去り、
寒い冬になってからというもの、
わたしの日課の中にあった、
”散歩”という大切なものが、
いつの間にか置き去りのままに、
日々が次々と過ぎ去ろうとしている。
黄昏の身の上にとっては、
大切に大切にしなければいけない時間、
それはもう重々承知しているのだけれども、
もちろん時間はあるんですが、如何せん、
”寒かった”んです。激しく苦笑。
もちろん”散歩の効用”は熟知していますし、
わたしの日常の中では、”ねばならない順位”の
上位に位置していたのだけれども、
知らず知らずのうちに、その姿は影を潜めてしまい、
いまでは、こころの片隅にも、頭の片隅にも、
否、暖かい午後などには、たまに心の片隅に、
ヒョイっと、姿を現すこともないではなかったですが、
それも、夕方過ぎて、辺りが薄暗くなって、
しんしんと寒さがその身に堪えるようになると、
”ねばならない順位”のランク圏外に失踪します。笑。
まあそれでも、如何に失踪しようとも、
やら”ねばならない順位”そのものが、
消え去るわけではありませんから、苦笑。
不思議です!今日何気に、
部屋の中を歩いている最中に、
ずっと忘れ去っていた、”スポーツコート”が、
目に飛び込んできて、”俺を使え”と囁きました。
するとこれまた不思議な事に、洋服棚の整理中に、
今度は、いつ使ってたかも定かでないような”手袋”が、
”俺を使え”とばかりに微笑み掛けます。笑。
するとその”手袋の微笑み”と同時に、
”散歩”の2文字が心の中で躍ったのでした。笑。
するとまあ不思議は重なります。
それから暫くして何気に開いたお気に入りの本も、
何故か”散歩”にまつわるエッセイページがサッと。
【散歩の思索】
思うに、四十も半ばになり、
この「お散歩」つまり
歩くという行為は、
いよいよ私にふさわしい。
かってのように若さの力で、
走り、閃き、考えを
つかみ取る仕方ではない。
じっくりとした思索の深め方が、
どうもこの歩くリズムに
ちょうどいいようなのである。
年齢相応というと陳腐だけれども、
我々の肉体と精神というのは、
そんなふうに
互いに互いを測りながら、
老いの時間を深めて
いくような気がする。
できれば、そこに、
尻尾の生えたお伴がいるなら、
それはなお豊かな時間と
なりましょう。
『死とは何か』池田晶子(著)
【散歩をスポーツに】
いろいろなスポーツがどんどんプロ化し、
つまり本当のスポーツでなくなろう
としている現在、わたくしは散歩を
スポーツにしたいと考えています。
ヨーロッパの哲学者は、
古くから散歩を日課とする例が
すくなくありませんでした。
スポーツとしての散歩は、
哲学者を生むための
ものではありませんが、
フェア・プレイの心、
独自の思考、
不屈の意志などを
はぐくむことができます。
『自分の頭で考える』外山滋比古(著)
ということで、今日の不思議な出会いに感謝して、
さっそく”スポーツコート”も”手袋”も、
天日干ししていますので、
今宵、食事後の寒い中を、
颯爽と、”お散歩”復活ということで。笑。