先日、この春に天国に旅立った母が
生前にずっと住んでいた実家(田舎)の後始末のために
帰郷してきたのですが、
随分と久しぶりに帰って見る故郷は、
幼い頃に過ごした活き活きとした原色の広がる世界ではなく、
そこはかとなく物悲しいセピア色の風景に包まれていました。
それはもちろん同時に、
かって居たちょっと怖い近所のおじさんや、
いつも優しく声掛けしてくれる近所のおばさんなど、
みんなそのセピア色の風景の中にはもうすでに映ることはないのもありますし、
幼い頃にたくさんの子ども達と一緒に駆け回った路地や路地裏、
たくさんのお兄ちゃんやお姉ちゃん達、
たくさんの同級生や下級生たちに囲まれて、
連なって歩いた通学路や、
そのまわりに当たり前のように軒を連ねていた建物や、
季節の移り変わりを知らせてくれていた田園風景など、
そのどれもが、
今は無き遠い昔の幻影としてしか
見ることが出来なくなってしまっている、
時代の移り変わりをはっきりとこの眼で確認したひと時でもありました。
そしてまた、
この世に生を授けてくれた父や母の想い出を辿るひと時ともなりました。
父が年老いて、
病に冒されての入院生活が長くなったある日、
何故か私は、無性に父と人生を語り合いたいと思う朝があり、
その日の午後、父の入院する病院を訪ねました。
病室のベッドに横たわる父に、
(親父さあ~!、どうして、あんなに真面目に仕事して、何か夢とか何かあったの?)と尋ねてみました。
「父は真面目でコツコツと仕事すると普段から周りの人達から評されることが多く、それは私の耳にも度々聞こえてきていましたし、
事実そういう人なのは、子どもの目にもそう映っていましたので」、
父は突然の私の質問に、少し戸惑いのような笑みを浮かべて、
(夢か~!無いな~!)
(じゃあ、どうしてあんなに真面目に一生懸命仕事してたの?)
すると父は、微笑みを湛えながら、
(それはおまえ!いのちきするためだよ!)
「いのちき(命生)」標準語に「いのちき(命生)」という言葉はおそらく無いと思いますが、
私の生まれ育った田舎では、
普通に使われている言葉で、
「生きていく」ということを表現する言葉です。
要するに父は、
「家族が生きていくために、一生懸命仕事をしていただけだ!」と、
そこには、我が子の突然の唐突な質問に、
何の飾りも無い、ありきたりで当たり前の言葉にもかかわらず、
確かに重く、限りなく深い、
父の生き様を見た言葉として、
私の心に深く刺さって、
生涯の宝物となった言葉として刻まれました。
今日も黄昏ナルー(波乗り天風)にきていただいてありがとうございます。
「苦をも楽しく」人生の波風を颯爽と乗りこなしていきましょう!
byライフエイド黄昏ブロガー。
アリストテレスも、パスカルも、フロイトも、トルストイも、カントも、プラトンも、ソクラテスも、皆一様に、「生きてる意味は=幸せになることだ!」と答えています。シンプルですが、奥は深い!「私は父の幸せのひとつになり得たのだろうか?」その答えはこれからの私の生き様の中にある気がします!(笑)。
家族を支えるお父さん!お母さん!「バンガレ!」
人生の黄昏時を過ごす身になって、
あらためて想う親への感謝。