トラック⑪天風曰く
実我鏡の第二である
有意実我鏡に、
心を没入することによって、
この雑念妄念が
いつとはなしに
払いのけられる人間になる。
私はね、インドの山のなかで、
もう朝から日暮れまで
座禅を組んだ。
たった独り、
岩の上でもって、
滝壺の脇で。
そうしたらこの、
雑念妄念を取るための
座禅ですからね。
そして三年間の行を終えて
日本に帰ってきてから考えた。
座禅組まなきゃ
雑念妄念が取れないって、
そんな馬鹿な話があるかい。
人間の心、
万物の霊長たる価値の
シンボリズムである人間の
心をきれいにする、
なんでそれが特別に
座禅組んだり
何を組まなきゃ
しなきゃならないという
法があるかって。
たとえば人間が、
肉体が疲れた時に、
休める方法に
特別な方法はないじゃないか。
休息すりゃいいんだ。
心だってそうだ。
雑念妄念を取って
純真な心にかえるのに、
何もそんなに難しいことを
する必要ないだろう。
またしなきゃできないってほど
不自由なもんじゃないだろうと。
真剣にお聞きよ。
雑念妄念を除くのは、
難しくないの。
無念無想になりゃいいんで。
無念無想というのは、
夢、幻じゃないんですよ。
肉体の存在も、
精神の実在も
はっきりと認識して、
ただ、一切の感覚を超越して、
超越するというのは
相手にしないことなんですよ。
痛かろうとつらかろうと
相手にしないで、
実際の感情、情念を
心のなかに入れないで、
純真な気持ちになるのが
無念無想なんです。
つまり、実我鏡の
有意実我鏡に
なりさえすりゃいい。
ここまでは座禅の坊主なんかは
理屈としてある程度
わかってましょう。
けれどもこれから先が
彼らはわからない。
難しい日想観とか水想観とか、
声塵得道とかいうような、
あるいはまた公案、提唱を考えて、
しびれ切らしてからに、
何時間も座禅を
組んでなきゃできないと、
こういうふうに思ってる。
あるいはまた斎戒沐浴、
寒中水垢離なんて
いうようなことをやってね。
断食をするとか、
茶断ち水断ちをするとかね。
普通の人の到底できないことや、
耐え得ぬ困難や、
極度の忍耐を必要とすることを
しないてえと、無念無想には
なれないと思ってるんだ。
しかし私は十数年の研究から、
即座になれますよ。無念無想に。
今すぐさしてあげる。
明日に続きます。
ではまた明日。
雑念妄念を取り除いて
無念無想になる。