【言葉の彫刻 ・一行詩 名言・格言】
一行で人々の心に刺さる文章、それが一行詩
また、生きるヒントや支えとなる人生訓・名言・格言
それらの座右の銘ともなりうる言葉・文章、
食物が身体の糧であるように、言葉は心の糧です。
私たちの心は言葉によって育てられます。
平凡な言葉を読み、あるいは声を掛けられるだけで、
心が満たされることがあります。
それはあいさつの一言であったり、
あるいは一首の和歌、あるいは一節の詩によっても
こころの傷が癒される、そんな言葉のひとつ一つ、
それはまさに、深い意味のある長い文章から
削って削って削り出された【言葉の彫刻】とでもよべるような
深くて重い言葉の芸術の趣きがあります。ここでは、
不肖わたくし老楽ブロガー文彰お気に入りの
心に火を灯す【言葉の彫刻 一行詩・名言・一節の詩】を
紹介していきたいと思います。
「コトバ」、それは言語の姿をしていない、
もう一つの見えない「言葉」。
今回のコトバ
もうけっしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまっている
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軋道をすすむ
〈賢治の詩の世界〉 「小岩井農場」の一節
「悲傷」悲しみの傷、
それは目には見えません。
心の傷跡を、「淋しさ」と共に「焚く」。
そして、焚かれたところから発せられる光で、
人はその人の人生の道をひとり、
歩いて行くというのです。
口ではもう大丈夫だと言える。
事実、そう感じることもある。
だが、また、かならず淋しくなる。
「けれどもここはこれでいいのだ」
理屈の通らないところにこそ
人生の実相がある、というのです。
悲しみには層がある。
悲しみは生きることによって深まってくる。
人は誰もが、あるときから、
悲しみの光によって導かれ、
人生の深みをかいまみようとする
旅に出ることになる。それが定めだ。
と、賢治は言うのです。
「詩と出会う 詩と生きる」
若松英輔(著)抜粋引用